テ・アモ(Te Amo)第3章
約半時間後、黄色いタイルの壁に安っぽいレースのカーテンが懐かしい店で、パエリヤの上に驚くほどの量のライムを絞りながら、彼女は、私の顔のパーツひとつひとつ を、検分するようにじろじろ見ていた。彼女の均整の取れた顔を眺めていると、自分の低い鼻やら奥二重の目やらが少々不安に思えてくる、そのくらい彼女は容赦なく私を眺めた。
「で、奈津江さんは、彼氏とかいんの?」
「あ、うん、高校の時から付き合っている彼がいるけど。」
と言うと、「写真、見せて」
私の入学式の時に肩を寄せて笑っている写真を見せたら、しばらくジロジロと眺めた後、
「ふうーん。背、高いね。」
多分、エリカと出会って、失礼なやつ、と考える人は多いのだろう。 呆れるほどの一般礼儀のなさの陰には、場違いなほどの無垢が、見え隠れしていた。
彼女の言うことには、両親は小さい時に死に別れ、叔父さんが息子二人と共に、エリカを育ててくれた。九歳の時にその叔父さんが遠い親戚を頼って、日本に出稼ぎに来て、子供たちを呼び寄せ、居ついてしまった。今は叔父さんは埼玉の工場で働いているらしい。
高校を出てしばらくブラブラしていたが、今は、知人のメキシコ料理屋で調理のバイトをしながら、通訳と翻訳の仕事もして家計を助けているという。その割にあくせくしていないし、わけがわからない。
「だから俺の家族は、兄さん二人と、おじさんと、俺で、ペルー人の男は家事なんてしねえから、こう見えても俺は洗濯や掃除が得意なんだぞ」
本当に見えないね、と返すと、笑いながら殴るふりをされた。彼女の荒い言葉遣いのわけがわかった気がした。
(次回へ続く)
(第1章から読むーー>テ・アモ(Te Amo)第1章 - サルサ・ラバーズ小説)
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テ・アモ(Te Amo)第2章
エリカとは、大学に入学した頃からの付き合いになる。とは言っても、彼女は学生ではない。無断でキャンパスに入り込み、南棟の前の欅の下で、落ち葉にまみれて、ギターを抱えて歌っていたのだ。小麦色の肌と琥珀がかった瞳のせいでハーフに見えたが、後に、実際は四分の三は日本人だと、わけのわからない説明をしていた。真っ直ぐの黒髪を腰まで伸ばしていて、ほとんど化粧もしない。一年中カーゴパンツを履く主義は、あくまでも日本の流行を無視している。
それでもエリカは綺麗だった。
特に歌う時の彼女は、眉をしかめて、凄みのある美しさだった。歌は、スペイン語の歯が浮くようなバラードに、たまに日本語のオリジナルらしい曲が混じる。
「大学には変な人がいるんだなあ」と凡庸な感想を持ちながら、三限目のスペイン語の授業を終えて暇だった私は数人に混じって、ある日、壁にもたれて聞いていた。Amor -- 愛が届かない、という内容の、やたらと繰り返しの多い曲だった。
数人がパチパチと手を叩くと、まるでお花畑にウサギを見かけた少女のように、にっこりと笑った。
「Gracias. 最後まで聞いてくれて、ありがとう」
「今のは、自分で作ったの?」と聞いていた男子学生の一人が聞いた。
「そう、オレのオリジナル。なに、気に入ってくれた?」
自分のことを「オレ」と言う呼び方と、雰囲気と全く合わないぞんざいなしゃべり方に気押されたのか、その学生が曖昧な笑みを浮かべて、後ずさった。
壁から体を浮かせて、気になっていたことを聞いてみた。
「あの、なんで、スペイン語の歌ばかり歌ってるんですか。」
「オレ、もともと日系ペルー人だから」
ペルーと聞いて、懐かしい感じがした。私は行ったことはないけれど、若い頃マチュピチュに惚れ込んだらしい母の弟が、ペルーに永住して、ツアーガイドをやっている。あんまり連絡はないけど、親戚で集まると、必ず噂話が出る。
そう告げると、
「へえ。どこ?」
「えーと、チチカカ湖の近くの町だった。名前まで覚えてないけど」
「お前は?途中、口パクしてたぞ。南米に行ったことあるのか?」
「あ、行ったことはないけど、一応スペイン語専攻だし。まだ全然だけど」
それだけリフレインすれば、たとえスペイン語が一言もわからなくても一緒に歌えるだろう、とは言わなかった。周りを見回すと、ほかの学生たちが、ばらばらに正門の方へと歩き去るところだった。彼女は、子犬みたいな目でじーっと私を見つめると、座っていた花壇からバネ仕掛けのように飛び上がった。
右手を差し出した。
「ワタナベ・エリカ。よろしく」
「あ、どうも。えーと、塚本奈津江です」
「メシ、食わない?」さっさとギターをしまいながら、「この近くに、美味しいスペイン料理を食わせるところがあるんだ。綺麗なとこじゃないけどさ。ボリビアの話でもしよう」
(次回へ続く)
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テ・アモ(Te Amo)第1章
細身のスーツを着こなした若い男性とエリカは、曇り空を指差し、肩をすくめ、笑いながらハグを交わし、手を振った。
スペイン語の嬌声があまりの大声なので、私はいちいち辺りを見回してしまうのだが、さすがはニューヨーク、人々はコートの襟を立てたまま、足早に通り過ぎるだけだ。
「今のやつも、ペルー人だった!」
浮かれついでにギターを意味もなくかき鳴らし、 白い息を吐きながら、エリカは言った。
「ついでに、『君の彼女?』って、お前の方を指差して聞いてきたぞ。さすが、ニューヨークのゲイは、鋭い」
「さすが本場だね」
と苦笑する。「でも、エリカ、ちゃんと訂正したでしょうね?そうじゃないって」
「ふふん」
エリカは鼻を鳴らし、答えない。
三日前にニューヨークに着いてから、 浮き沈みが激しかったが、いよいよ目的の日が明日だというので、今日のエリカは手がつけられない。
いきなりけたたましく笑ったり、ぼーっとして返事もしなかったり、まるで子供だ。
私は、まさにベビーシッターとして連れてこられたのだ。その事実を私は心の中で呪った。
その時、ショートヘアの中年女性二人が、エリカのギターを見て立ち止まった。二人とも、暖かそうなウールのコートに太り気味の体を包んでいる。よく似た雰囲気の二人だと思ってみたら、なんと、二人は仲睦まじげに手を繋いでいた。
そんな必要もないのに、私はそれを見た途端に目をそらしてしまった。いけないものを見たかのような罪悪感が、不思議に沸き起こる。
エリカは、もちろんそんなことには無頓着に、ギターを膝に抱えたまま、今は土まで凍てついている花壇の端に腰をかけて、エリカにしては愛想よく、ハーイ、と声をかけた。
「どんな歌を弾けるの?」
一人がイギリス訛りの英語で聞いた。
「なんでも」とエリカが大嘘をつく。
「今日は、彼女の誕生日なのよ。なにか素敵なのを弾いてあげて」と言われて、もう一人が恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ、二人にぴったりな一曲を捧げましょう」
エリカが、どこかで聞いたことのあるイントロを弾き始めると、コードを押さえる指先がピンク色に染まった。真っ直ぐの長い髪の毛が、時折強くなる冬の風にあおられて、少しだけ乱れる。
短く息を吸い込むと、低く、艶のある声が、あの小さな体からほとばしり出て、歩道を満たす。
無関心なニューヨーカーたちが、一人、二人と立ち止まる。それだけの力があるのだ、エリカの声は。
私もポケットに両手を入れて、この歌姫が愛と運命を語るのに耳を傾けた。
<第2章へ続く>
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あなたたちが欲しくて(第1章)
サルサのリズムに、足が地を踏み、跳ね上がり、半拍子遅れて腰が8の字を描く。
踊っている理沙は、火の精だ、フロア中のすべての視線を吸収して、それをダンスシューズの先からのぞく、真っ赤なマニキュアをほどこした爪の先まで楽しんでいる。
素早く回転する首の周りを、スローモーションで追いかける肉厚なくせ毛は、普段は寝起きの扱いに苦労し、密かにまっすぐな長い髪に憧れているくせに、今はまるでそれ自体が別の生物のようだ。
ドラムが一層響きを増し、ボンゴのリズムが佳境を迎え、そして止まった。その瞬間、理沙は男の指に導かれ、右回転すると頭の重みを男の指三本に預け、そのまま床の近くまでディップし、同時に右足を蹴り上げて、男のもう一本の手に預けた。
すでに踊りやめた周りのダンサーたちから、小さな喝采が起こる。
宙空に足先を伸ばしたその姿勢のまま、刹那注目と歓声を味わった後、理沙は、暖かい男の手のひらと呼吸し合いながら上半身をゆっくりと起こし、息を整えながら、男と目を合わせてにっこりと微笑んだ。
なかなかいい男だ。
インカの先住民の血を引き受けた鼻梁がすっきりと顔を分けており、侵略者であるスペイン人の薄茶色のクールな目がそのふちを飾っている。
長めの髪を小さなポニーテールにまとめているのが、あまり嫌みでない。明らかに南米人だが、ペルーだかコロンビアだかボリビアだか分からない。上背があるので、ボリビアではないだろうと理沙は見当をつけた。
一昨年、ペルーでのプロジェクトに出張に行った際、ついでに有給を取ってボリビアを訪ねた。の人々は、静かな人々だった、そして一様に背が低かった。
「もう一曲?」
男が、答えを待たずして、理沙の手を握ったまま、腕の動きを素早く新しい曲のリズムに織り込んでいく。理沙は、その心地よさに一瞬足下を捕われそうになってから、なんとか踏みとどまった。
「ちょっと一休み。水を飲んでくる。また後でね」
ただの言い訳ではないことを示すために、もう一度目を覗き込んで微笑むと、理沙は廊下に向かった。
サルサの場で出会う、いい男たちには慣れている。しかし、その男たちがダンスフロアを離れてからもいい男であることは滅多になかった。口を開けば、オドオドと舌足らずに話す、汗にまみれた手で大きなボウルからチップスを鷲掴みにし、理沙を日本人だと知るやいなや、料理を作ってくれて、尽くしてくれるのだと、勘違いし、それを恥らいもなく口にする。
しかも、同じ男と何曲も踊り続けると、相手は期待を抱き始める。
踊り方が甘えと妖艶さに満ちているだけに、そして、踊っている間だけは真剣に相手の目を見つめ通すだけに、理沙は、あらぬ誤解をされることが多いことを承知していた。
テーブルの上に、チーズとクラッカーと、申し訳程度のプチトマトが並べられている。理沙は大きなウォータークーラーに直行し、紙コップからレモン水を立て続けに飲み干した。
振り返れば、大きな暗い床敷のサロンで、多くの男女が腰をぴったりと合わせて、次の曲に揺れていた。
くせのある、誘惑的な遅いリズムは、バチャタだ。技術で周りを魅せる王道のサルサダンサーたちは、この単純で、あからさまに欲情したバチャタの曲がかかると、わざわざフロアを離れる人も多い。だから、サルサパーティーではたまにしかかからない。
「見たよ、あれはいいディップだったね」
理沙の汗で濡れている裸の肩に手が置かれた。
「リサだからこそできる」
振り向くと、すぐさま腕が伸びてきて、きついハグをされたあと、両頬にキスをされた。
<第2章に続く>